なぜなに中世事情


LIBER VIII LUPUS EST HOMO HOMINI
―第八話 人は人にとって狼― より

バッキンガム公の騎行

マリアと「北の部族」の会話に出てくる「騎行」だが、これは百年戦争、特に14世紀に盛んに行われたイングランドの戦術「Chevauchée」のことを指している。機動力の高い騎兵などで敵地に深く侵入し、守りの弱い村などに対して放火や略奪、家屋の破壊を仕掛け、敵の士気や生産性を低下させることを目的にしている。単なる傭兵の略奪と同じにも見えるが、戦術的な意図があるので区別すべきだろう。14世紀には、1355年と56年のエドワード黒太子、1373年のジョン・オブ・ゴーントの大規模な騎行が何度か行われたが、フランス側の城壁の整備やイングランドの支配地拡大などの理由で、15世紀になるとほとんど行われなくなってくる。後のグロスター公トマスとなるバッキンガム伯によって行われた1380年のものが最後の大規模な「騎行」と言える。


LIBER VIII LUPUS EST HOMO HOMINI
―第八話 人は人にとって狼― より

義手が入った木箱の文字

ガルファの義手が入った箱に書かれていたのは、古代ギリシアの詩人ピンダロスの合唱詩から取られたラテン語警句「Dulce bellum inexpertis」。これは「戦争はそれを経験していない者には甘美」というような意味で、この後に「経験した者は、近づくだけで激しく身震いするほど恐れる」と続く。ピンダロスはギリシアとペルシアの戦争の最中でも、中立的な態度を取ったと言われている。この警句は有名でいろいろな訳がなされているが、しばしばエラスムスの言葉と間違って紹介されていることもある。


LIBER VIII LUPUS EST HOMO HOMINI
―第八話 人は人にとって狼― より

中世の義手

第八話でガルファがル・メ伯ギヨームから義手を受け取っているが、義手や義足は古代エジプトから存在し、中世でも義手や義足の騎士もいたという記録はある。そして、義手の歴史を語るうえで外せないのが、この作品の設定よりも少し後の時代に作られた、「鉄腕ゲッツ」の異名を持つドイツの騎士ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの義手だろう。彼の義手はいくつかあったらしいが、1530年に作られた義手は特に精妙な機構が組み込まれ、親指は2関節それ以外の指は3関節あり、独立して動かすことが可能で、剣を握れる仕掛けなども施されていたと言われている。


LIBER VIII LUPUS EST HOMO HOMINI
―第八話 人は人にとって狼― より

ジルベールの"平伏"

キリスト教の祈り方で、我々が良く目にするのは跪いて祈る所作だと思う。しかし、実際には様々な所作があり、仏教の「五体投地」のように床や地面に全身を投げ出して、腹ばいになって平伏して祈る所作もある。中世13世紀の聖ドミニクスの祈り方を書いた本にも、9つの祈り方の一つとして、この腹ばいになった祈り方が描かれている。偉大な存在に対して、身を低くするという感覚は、仏教でもキリスト教でも共通するものがあるのかもしれない。また、腹ばい平伏しただけではなく手を広げ十字架にしている祈る所作もあり、第八話でジルベールがミカエルの降臨した井戸の前で行っているのはこれである。


LIBER VII BELLUM SE IPSUM ALET
―第七話 戦争は戦争を食う― より

中世の大砲

7話でル・メ伯に雇われた砲兵親方が苦し紛れに発射したのは、射岩砲(ボンバルデ)と呼ばれる初期の前装砲。火薬や大砲の起源は中国にあるが、それがイスラム世界を経由してヨーロッパに入ってきたのは、11世紀頃ではないかと言われている。12世紀には「Pot-de-fer」(鉄のポッド)と呼ばれる原始的な金属砲が使用され始め、百年戦争の頃には英仏両陣営で使用されていた。ただし、この時代の砲弾はほとんど丸い石弾もしくは鉄弾で、特別な例を除いては中に火薬は詰められておらず、炸裂することはない(ボーリングの球がものすごい速さで飛んでくるようなもの)。主に敵が立てこもった城塞の壁に対して使用され、射程や威力も限定的な上に、野戦で運用するのは非常に難しかった。百年戦争最末期である1450年のフォルミニーの戦いが、野戦で大砲が成果を上げた最初の戦いという見解もある。


LIBER VII BELLUM SE IPSUM ALET
―第七話 戦争は戦争を食う― より


LIBER V SAPERE AUDE
―第五話 勇気を、分別を、― より

床屋外科医

7話で修道院が運営する「神の宿」(オテル・デュー)に担ぎこまれたガルファを治療したのは床屋外科医と呼ばれる職業の人物。中世フランスでは外科的な医療処置を、剃刀などの刃物を使い慣れた床屋が兼業で行うことがあった。当時の教育を受けた医師たちは内科的な治療に専念する傾向があり、麻酔もないため、泣き叫ぶ患者を押さえ込みながら、血まみれの作業を行わなければならない外科手術を医師たちが敬遠されたという側面もあるだろう。そのため、床屋外科医は髪や髭を切るだけでなく、瀉血や潰瘍の処置なども行い、戦場では負傷者の治療に従事し、中には貴族などに雇われ医師の助手のような地位についた者もいたらしい。都市には彼らの組合も存在したほど勢力を誇っていた。
ちなみに、「神の宿」(オテル・デュー)は貧しい人たちに無料で医療を施すために、修道院などが運営していた施設。当時、教会は大きな権力を有していたが、こうした慈善事業を行い、人々に寄り添う姿勢を見せていたことも忘れてはならない。