なぜなに中世事情


APOCALIPSIS OMNIA VINCIT AMOR
―第十二話 愛は全てに勝つ― より

パクス・デイ

最終話でジョセフの答えに対して大天使ミカエルが発する「パクス・デイ(Pax Dei)」という言葉。これは「神の平和」を意味しており、中世ヨーロッパに起こった平和運動を指している。
十字軍などの歴史を見るとキリスト教の戦闘的な側面が気になるかもしれないが、ローマ教会の中では、10世紀から11世紀頃にかけて、宗教的な権威を持って横暴な封建貴族に対して女性、子供、非武装な農民などへの危害、略奪を止めさせるという平和運動も展開されている。始まりは南フランス地方だったが、やがて司教などを中心にヨーロッパ各地で広がみせ、その理念は教会法などにも取り入れられていった。一定期間の戦闘の停止や非戦闘員への安全確保、約束に反した領主の破門など、ローマ教会が平和実現のための具体的かつ政治的な努力を行った運動であり、それまで不法な収奪などに苦しめられていた農民にとっては救いだっただろう。横暴や腐敗は少なからず存在していたが、ローマ教会がこうした一般人に寄り添う姿勢を見せていたことも忘れてはならない。しかし、各地で世俗の王権が強化していく中で、宗教の権威を基盤にした運動は少しずつ力を失っていく。
ジョセフが森で教えを受けたという隠者さまは、こうした「神の平和」の理念を受け継いだ人物だったのかもしれない。


APOCALIPSIS OMNIA VINCIT AMOR
―第十二話 愛は全てに勝つ― より

ホタテのお守り

第一話からアンが腰に下げているホタテのお守り。フランスではホタテのことを、「Coquille Saint-Jacques」(聖ヤコブの貝)と呼んでいるが、その名の通り、ホタテ(正確にはヨーロッパホタテ)はイエスの使徒の一人である聖ヤコブのシンボルとされている。ヤコブは古代ユダヤの統治者であったヘロデ・アグリッパ1世によって斬首され殉教したと伝わっているが、その遺体が運んだ船の船底にホタテが付着していたのでシンボル化したという説もある。それ以外にも聖ヤコブの遺体があるとされるサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼で、巡礼者が記念に近くにある海岸でホタテを拾って帰ったので、聖ヤコブのシンボル、ひいては巡礼のシンボルになったという説もある。アンがホタテをお守り代わりにしているには、彼女の近しい誰かがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を行い、その記念をくれたのかもしれない。
ちなみにイーヴァンの傭兵団「赤腕の兄弟団」の旗もホタテをデザイン化したものであるが、これは彼がスペインのどこかの出身という設定があり、スペインの守護聖人が聖ヤコブだからという理由である。


APOCALIPSIS OMNIA VINCIT AMOR
―第十二話 愛は全てに勝つ― より

藁でできた祭りの山車

村の祭りで、麦藁で作られた山車らしいものが登場する。この場面の季節は、9月に行われる大天使ミカエルの祝日・ミカエルマス(Michaelmas)をイメージしている。古いヨーロッパではこのミカエルマスの日までに収穫を終わらせないといけないと言われており、アンの村ではそれに合わせては秋の収穫を祝う祭りが開催されるという設定である。あの山車は新しい麦穂で作られ、秋の収穫を感謝する飾りパンが置かれている。
このシーンの祭りは中世フランスに限らず、いくつかのヨーロッパの収穫祭を混合させた形で表現しているが、こうした祭りの形態はキリスト教以前の古いヨーロッパの土着信仰の残滓という側面もある。カソリックはその布教初期の段階で、こうした各地の信仰を吸収し、ある種融合も甘受しながら拡大したことという経緯もあるが、もしかしたら、この祭りははるか昔にはあのケルヌンノスに人々が感謝を捧げるための祭りだったと考えてみるのも楽しい気がする。
古い信仰と新しい信仰が緩やかに共存している祭りのシーンが最終話を彩っていることに、なにがしかの思いが生まれて頂ければ、制作側としてはうれしく思う。


LIBER XI SI VIS AMARI, AMA
―第十一話 愛を望むなら愛せ― より

傭兵たちとの契約

11話でロロットが「シェフがいないとさ、依頼主から金もらえない時があるんだよね」というセリフがある。封建社会では、主君から封土を与えられた家臣が軍役奉仕として召集され、それが軍隊の中心になると考えられる。しかし、現実的にはなかなかそうはならず、封建主義の兵力的な限界を補うために、百年戦争ではパートタイムで契約できる傭兵の需要が増していった。しかし、雇い主から傭兵との金の支払が毎回順調に行われた訳ではない。中世のような徴税制度が未発達な社会では王や貴族のような権力者も財政基盤が不安定で、傭兵の金の支払いを停止することもしばしばだった。逆に、傭兵側も雇い主の意向を無視したり、兵員や装備をごまかしたりで、支払いで揉めることも多かったらしい。百年戦争時にブルゴーニュ公などに雇われていたポワトゥー出身で平民上がりの傭兵隊長ペリネ・グレッサールなどは、雇い主のブルゴーニュ公からの占領した城の明け渡し命令を無視し、支払いを停止されても居座り、最終的には明け渡す相手だったフランス王シャルル7世から巨額の金を出させることに成功している。こういう狡猾な傭兵相手の契約なので、王も貴族も金を払いたくない時は多々あったのだろう。


LIBER XI SI VIS AMARI, AMA
―第十一話 愛を望むなら愛せ― より

義手の着脱

11話でジョセフが傷を防ぐために巻いた布が絡まって、ガルファの義手が外れるシーンがある。以前の「なぜなに中世事情」でも書いたが、義手や義足は古代から存在し、そうした義手や義足は革製などの装着具、ハーネスで体に取り付けるのが一般的であった。近代医学の創始者の一人である16世紀の外科医アンブロワーズ・パレも、義足が外れないような特別なハーネスを付けた本格的な装着具を考案している。これも以前に書いた「鉄腕ゲッツ」ことゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの義手にも、バックルが付けられており、そのバックルに特別なハーネスを通し、ズボンのベルトのように肩や脇などに回して固定させていた。もちろん、こうした装着具はなかなか外れないような機構であるが、なんかのきっかけで外れる可能性はあると思う。




LIBER XI SI VIS AMARI, AMA
―第十一話 愛を望むなら愛せ― より

ヘルメットの下のヘッドウェア

中世ヨーロッパには、現在ではあまり見ることがない頭に着用するものがある。ジョセフがヘルメットの下に被っているものは、「コイフ」(coif)などと呼ばれており、ファッションとしては13世紀頃から一般的に着用されるようになったと言われている。元々は戦闘用で、頭から膝までを覆う鎖帷子が起源と思われるが、時代が遡るにつれて頭部用が分離していき、最後にはクッション代わりに金属製ヘルメットの下に被るようになっていったと言われている。ファッションとして定着したコイフはリネン製が多かったが、ジョセフがヘルメットの下に被っているのは戦闘用で、衝撃を吸収できるように詰め物がなされている「パディッド・コイフ」「アーミング・コイフ」などと呼ばれるものである。


LIBER X ODI ET AMO
―第十話 我憎み、我愛す― より

ジルベールが洗礼にこだわる理由

第十話で異端審問を行うジルベールが、マリアに洗礼を受けたかどうかを何度も尋ねている。洗礼はキリスト教に入信する時に行われる秘跡で、カソリックでは両親の信仰に応じて生まれた子供に洗礼を行う幼児洗礼という慣習がある(自覚的な信仰告白のない洗礼は無効という考えもある)。
ジルベールが洗礼にこだわっているのは、異端とはキリスト教の正当な信仰とは違う間違った教えを信じていることであり、あくまでキリスト教徒であることが前提でなければならないからである。そもそもキリスト教徒でないならば、異端ではなく異教徒(もしくは無神論者)ということになる。つまり、洗礼を受けたかどうかが、キリスト教かどうかの判断基準だったのだ。
また、カソリックでは洗礼の際には、聖母や聖人の名前などに因んだ洗礼名が付けられることも多いので、ジルベールは聖母マリアに因んだ名前から魔女マリアがどこかで洗礼を受けているのではないかと考えているのだろう。




LIBER X ODI ET AMO
―第十話 我憎み、我愛す― より

クレーンで吊るされる伯爵

第十話でフルアーマーのル・メ伯ギヨームが簡易クレーンのようなもので釣り上げられ、馬に乗ろうとしている。かつて、鎧が重すぎて騎士はこうしてロープなどで釣り上げられないと馬に乗れないという伝説があり、映画「ヘンリー五世」などで描写されたこともあった。しかし、歴史的にはこうした騎士乗馬用クレーンが実在した証拠はなく、映画の歴史アドバイザーが間違っていると監督に抗議したこともあったらしい。実際フルアーマーを付けていても、トンボが切れる騎士もいたくらいで、自分で馬に乗れないということはないだろう(馬上試合用の特別に重い鎧などを着込んだ時に使った可能性はあるかもしれないが)。
ちなみにル・メ伯が吊るされるのは、「彼は鍛えていないし、吊るされたほうがル・メ伯らしい」という谷口監督の発案。チーフリサーチャーも面白そうなので、監督に抗議はしていない。


LIBER X ODI ET AMO
―第十話 我憎み、我愛す― より

“娯楽”としての処刑

これは中世ヨーロッパに限ったことではないが、処刑を公開することは、法の秩序を民衆に植え付ける教育的な儀礼の要素も含まれていた。現代の我々には残酷に見えるかもしれないが、普通の生活にすら危険が満ちていた中世では、罪人がきちんと取り締まられ、法によって秩序が回復されていく公開処刑という儀礼は、民衆にとって安心を提供するということでもあったのだ。しかし、こうした公開処刑は少しずつ世俗化していき、やがて民衆の大きな娯楽へと変化していく。ジャンヌ・ダルクが処刑された際にも多くの見物人が集まったと記録されている。処刑に集まった見物人たちは、処刑される罪人の落ち着いた態度には賞賛を送り、往生際の悪い罪人は非難の声を上げたと言われている。


LIBER IX CUM GRANO SALIS
―第九話 一つまみの塩を― より

異端審問について

9話では異端審問官となったジルベールが、マリアを異端審問にかけている。中世に限らないが、キリスト教の異端を論じるのは非常に難しい。「正統的な信仰ではないもの」と簡単に言うことが出来るが、何をもって「正統な信仰」とするかは当時の学識ある聖職者でも簡単には判断できなかった。そのため、12世紀の異端審問官だったベルナール・ギーなどの手によって、尋問方法や刑罰の基準、法的手続きなどを記した審問マニュアルや判決集が作成されている。異端審問は異端者を正統な信仰に戻すことが重要であり、かならずしも異端者がすべて火刑にされるわけではなく、巡礼や投獄などで許されることも多かった。ただし、異端審問官の個性や、政治的な意味合いを含んだスペイン宗教裁判などでは過激かつ拙速な判決で死刑にされてしまうこともあった。この作品よりも後の15世紀から盛んになる、いわゆる「魔女狩り」だが、異端審問官が関与せず、世俗権力や民衆の狂信などによって、法的な手続きを経ていない私刑のケースも多く、中世の異端審問と同様に扱うのは避けるべきだろう。


LIBER IX CUM GRANO SALIS
―第九話 一つまみの塩を― より

「聖トマ(サン・トマ)」の「神の存在証明」

9話でマリアとベルナールが地下牢で会話をしているが、その会話に出てきた「サン・トマ」とは、11世紀の中世スコラ学の代表的な神学者、カトリック教会の33人の教会博士の一人であるトマス・アクィナスのこと。彼の代表的な著作「神学大全」(Summa Theologiae)は、中世のカトリック神学のみならず、後年のヨーロッパ哲学にも大きな影響を与えている。当時のスコラ哲学は、アリストテレスの考え方を元に、キリスト教の再構築することを盛んに行ったが、彼の思想はその集大成的なものであり、三位一体などの教義を積極的に論理化し、「神の存在や超越的属性は論証することが出来る」という立場を取っている。


LIBER IX CUM GRANO SALIS
―第九話 一つまみの塩を― より

「オッカムのギヨーム」

同じく9話でベルナールの独り言のように語っているセリフに出てくる「オッカムのギヨーム」とは、14世紀に活躍した後期スコラ学の神学者であるオッカムのウィリアムのこと。ギヨームは、英語読みでウィリアムとなる。ちなみにオッカムは地名で、彼の出身地であるイングランド南東部、現在のサリー州バラ・オブ・ギルフォードにあった村の名前である。中世神学の中で重要な「普遍論争」の中で、当時としては革新的な「唯名論」を唱えたが、1326年にはその学説が異端であるとしてローマ法王から破門を宣告されている。その後は神聖ローマ皇帝の庇護を受け執筆を続けたが、1347年に黒死病で死亡。1359年にはローマ法王インノケンティウス6世によって、正式に名誉回復がなされている。


LIBER IX CUM GRANO SALIS
―第九話 一つまみの塩を― より

「ペラギウスの教え」

同じく9話でベルナールの口から出た「ペラギウス」とは、5世紀の古代ローマで「自由意思」を重要視した教えを説いた禁欲主義の修道士のこと。ただし、その生涯は不明な部分も多く、はっきりしたことは分かっていない。本当に修道士だったかも確証はない。イングランド出身と考えられているが、聖ヒエロニムスはアイルランド出身と記している。キリスト教の神の救済は予め決められているという「予定説」に反対し、神の恩寵が無くとも自らの「自由意思」によって善行を積めば救済が可能という教えを説いたと言われている。こうした教えはペラギウス主義とも呼ばれるが、418年のカルタゴ公会議で異端とされた。


LIBER IX CUM GRANO SALIS
―第九話 一つまみの塩を― より

「クォドリベット」

マリアの足の汚れを拭き、そこに口づけを行った後でベルナールが言ったセリフ「良いクォドリベットでした」の「クォドリベット」とは、特定の神学的哲学的な内容に関して、微妙かつ詳細な論証を行うこと。特に中世期に流行った討論の形式で、「お好きなように」というような意味のラテン語「Quodlibet」が語源。先に紹介した中世スコラ学の神学者トマス・アクィナスの著作の中にも、このクォドリベットの形式で思索が進められているものも多い。15世紀頃からは、いくつかの異なるメロディーで構成されている曲を表す音楽用語としても使用されるようになる。